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海外視察参加報告

AAA常任理事 中里睦子

アルバム
セレモニー 千の風

第2回スリランカ視察団ありがとう スリランカ
第1回インド視察団ナマステ カルカッタ
第1回フィリピン視察 サラーマット フィリピン
第2回スリランカ視察団報告 「ありがとう スリランカ」 

 報告アルバム 中里睦子 

 6月15日の深夜にコロンボの空港に到着した。遅い時間にもかかわらず農業副大臣夫妻をはじめ、スガッスさんほか数名の方々の出迎えをいただいた。
 スリランカという国名は「光り輝く島」という意味だと聞く。国民の多くは仏教を信仰する人々で、ほかにヒンドゥ教、イスラム教を信仰する人々がいる。出会う人々から穏やかな感じを受けるのは、民族や宗教の違いを超えて共に生きることが自然に身についているのではないだろうか。それに加えて、緑が多い、水もある。各地に点在する農業用の以下が風景を際立たせている。豊かな自然は、人の心をやさしくしてくれるということだろうか。
 しかし、国の北と東の一部には民族紛争が続いているということも現実としてある。 6月16日(土)は三校の学校を訪問し、贈呈式が行われた。
・ヘーラガマセントラル学校では、鼓笛隊と道の両側に並んで拍手をする生徒さんたちにく帰られ、私たちは合掌して「アーユーボワン」とシンハラ語のこんにちはで挨拶をしながら校庭に進んだ。そこでは、AAA代表とスリランカ農業副大臣により日本とスリランカの国旗掲揚があり、会場に入り、正面に置かれた鶏を頂点にした金色の大きな燭台に点火した。式の司会進行などをする係りの生徒たちは、AAAが送った紺のブレザーを着ていた。OPH二台を贈った。そのあと女子生徒による民族的な歌舞が披露された。
・カドマタマハリッテアル校でも鼓笛隊の出迎えをうけた。ここでは生徒の作品展場に入り手芸、洋裁、工作、絵などをみた。力作がたくさんあった。校庭では、手作りの四輪車が運転されていたり、ペットボトルを利用した水ロケットが、3、40メートルの距離を勢いよく飛んでいく。おーっと歓声を上げると、男子生徒たちは次なるロケットをまた打ち上げる。何発もの打ち上げ後、会場に入る。仏教僧の唱える三帰依文に合掌し、式が始まった。OPH一台と制服を贈った。ここでも数多くの伝統歌舞を見せてもらった。
・ランポクナガママハミッティアル校では、AAAが送ったピアニカも仲間入りしての鼓笛隊に先導されて校庭に入る私たちを日の丸の小旗を振る小学生が両側に並んで迎えてくれた。国旗掲揚のとき、ヴァイオリンの演奏で、20人ほどの小学生が澄んで透き通った声で、日本の国家を日本語で斉唱した。身に余る歓迎である。そして国旗、国歌について改めて考えを寄せた瞬間でもあった。
 ここで、案内されたのは、知的障害の教室である。席に着いている子、立っている子、声をあげて歩いている子、でも、見馴れない侵入者にちょっと驚いたという表情だったが、私たちの握手や、アーユボアンの合掌に安心したようだ。それにしても、日本の知的障害児の教室と比較もできない最悪の環境である。広い教室と視聴覚教材の必要に迫られていると言われた先生の思いがわかる。会場では、男子の勇壮な太鼓の響き、女子のしなやかな踊りの後、OPHと衣類を贈った。
 先の二校では、シンハラ語を日本語に通訳されることがなく残念だったが、ここでは、日本語の先生がいて、通訳してくれて、およそのことが解り、ありがたかった。
 以上の三校は、小、中、高で2000人〜2300人の大規模校だとのこと。先生は、70人〜75人。 6月17日(日) ハンランレ村訪問、衣類を贈った。ここでは、衣類を受け取る人のリストができていて、既に、小分けして、袋詰めされた衣類を、名前を呼んで一人一人に手渡しをした。行き届いた配慮を感じた。渡すと受け取る人が合掌して、眸交わす。私はカメラのシャッターを押しながら、AAAに衣類を送ってくださる方、仕分けして、箱詰めし、コンテナに積込む作業をして下さる方々に、この様子を、そのまま伝えたいと思った。 6月18日(日) 三泊お世話になったビヤガマビレッジのオーナーとAAA代表との話がトントン拍子に進んで、AAAがスリランカで活動するための土地を、オーナーが提供してくれることになり、その土地を見に行った。候補地は三カ所。どこを選ぶかは、次の課題。
 スリランカの国会議事堂見学。コロンボの東10キロメートルの地にある。1984年に首都スリジャヤワルダナプラにコロンボから移転した。しかし、首都機能の大部分はコロンボに残っていると思える。何しろ、堂々と立派な国会議事堂が緑いっぱいの田園地帯の大きな池の中央の島に、デンと構えているが、見ようによっては、威容というか、それとも異様というか。他の建物がない所が、異様さを際立たせているのかも知れない。
 厳しいボディチェックを受けて中に入れてもらった。国会は一院制、議会は開催中で傍聴席に着いてみたが、すぐに席を後にした。
 この後、車はコロンボ、キャンディーロードを東に進め、途中象のいる所やスパイスガーデンで楽しんで、夜おそく、マスケリアの宿に着いた。 6月19日(火) 山峡の宿は谷川の渕の斜面に建てられているのが、朝になって解った。川霧が上昇し、肌寒い、雨も降り出した。地元出身の国会議員さんの案内で、宝石採掘現場に行った。小さな原石を探すのにかかる労力と手間と宝石の値段との関係をふと思った。ここはどこかと、地図で捜そうとしたが、説明がなかった、聞き落としたか、わからない、ラトナプラかな。
 予定時間よりかなり遅れてガンポラに着いた。市役所のような場所で、衣類を渡すように準備されていた。ブルーの揃いに民族衣装の女性鼓笛隊に迎えられ会場に入った。名前を呼ばれて前に出てきた人に小分けした衣類を渡した。この後は農業大臣の待つ山上の観光スポットへ行き、大臣表敬。大臣の案内で建設途中の天望タワーに昇った。遠くに、山頂を雲に覆われた聖山スリパダを望む。これでスリランカの4日間の日程を終えた。 今回、AAAの視察団に参加できたことは、私にとって、とても意義深いのである。それは、私が20才の成人を迎えた年、1951年9月にサンフランシスコ対日講和会議があった。アメリカの占領下にあった日本の国の将来がどうなるのか国民関心高かった。その会議の席でセイロン(スリランカ)代表のジャヤワルダナ大臣(後の大統領)は、仏陀の言葉を引用して「憎しみは、憎しみによって止むことなく、愛(慈悲)によって止む」と言って、対日賠償請求を放棄した。自国セイロンは、戦時、日本軍による爆撃をうけ、日本軍が駐留し、国の重要産品生ゴムが日本軍の手中に、等様々の戦争被害を受けた。それにもかかわらず、ソ連の分割統治案に反対し、「日本が真に自由に独立した国であるよう」この会議に参加した国々に、寛容の精神を訴えた。私は、学校の寮で友人たちと、この報道を知り感動したことを覚えている日本人の多くはこの事を知らない世代であるが、スリランカの多くの人々は、世代を越えて、忘れていないのでないかと思う。
 AAAの地球家族に、誕生したスリランカさん、ありがとう。
 ささやかであっても、スリランカに感謝の心をもって、関わることの意味は大きいのではないだろうか。

第1回インド視察団 「ナマステ カルカッタ」 中里睦子 報告アルバム

 カルカッタの空港から市内ホテルに向う間、バスの窓から入る風は、カルカッタ臭を、そっくり届けてくれているようだ。湿度、臭気、喧騒は夜が更けていても変わらない。いかにもカルカッタだという気がする。狭い軒下のような所にも、雨を避けるように人が寝ている。カルカッタのホームレスは家族連れもいる、人が人らしく生きるとは、どういうことなのだろうか、考えさせられる。
 木曜日は、カルカッタのドライデー、この日に当たる6月21日は各所が休業日のようだ。ホテルでは、メニュウに書いてあるカバブを注文しても、ドライデーだから、と断られる。お酒だけでなく、肉料理もだめなのだ。
 そんな訳で、この日は、カルカッタから北へ25キロメートルにある小さな街チタガールに行った。ここには、チタガールハンセン氏病者のために1957年に始めたと聞く。
 線路沿いの細長い土地に細長い建物が、遥か遠くまで続いている。1、5キロメートルほどあるとか。インドでは、ハンセン氏病は、恐ろしい病気とされていることだろう。日本でもつい最近ハンセン氏病の裁判があったばかりなので関心がある。マザーテレサは「ハンセン氏病を忌み嫌えば、私たちはそこから何も学ぶことはできない。この出会いを神の恵みとして受け取る」と。
 はじめに行った所は、作業棟で サンダルを作っていた、その先は木工、機織りで、織機は、1ー50まで番号がふってある。細長い建物の片側に1列に並んで置いてある。シーツ、ベッドカバー、ルンギ(男性のスカート)サリーなどが織られていた。マザーテレサのサリーでお馴染みの端に青い縞のあるサリーもここの製品であった。白い糸を原価で仕入れ、染色はここにいる人たちの作業として分担されていた。織機の向かい側や、間で食事をしている人、機織りをしている人も、にこやかに迎えてくれる。仕事ができる喜びを知っているからだろう。
 患者同士で結婚し子を育てながら、ここで生活している人もいる。子がハンセン氏病に感染した例は一例もないとのこと。保育所も教育施設もある。
 歌いながら踊る少女たち、それを床に座って見ている子たち、素朴さと明るさいっぱいの表情で私たちを迎える。私も一緒に歌いたくなる気分にさせてくれるのだった。指導している先生は、患者であった。建物の外に出ると、豚などの家畜を飼育している人、野菜を作り、果物の木を育てている人、池を造り、魚を飼っている人、など自給自足の生活のようだ。診療所、入院病棟もある。若い女性の患者が明るく話しかけてくれたので、ナマステと応えた。建物に沿い線路脇の道を歩けば、燃料にする牛糞が直径10数センチの円盤状にまとめられ、壁や草むらのそばに干してあった。道は土のままで、水溜まりがあるので、砂利を入れたザルを頭にのせて運び、補修作業をしていた。
 日本と異なって、ハンセン氏病センターが街の中にある。マザーテレサの愛を思わずにはいられない。

子どもの家

 6月22日(金)子どもの家に行った。1955年、ごみ捨て場に捨てられた子を拾ってきたことから始まった。親の愛、家族の愛を失った子どもたちがここで育てられている。生後4日が最年小。シスターに抱かれて寝ていた。
 棚付きの子どもベッドが広い部屋にびっしりと並んである。まどろむあり、ミルクを飲む子、目をあけて静かにしている子、頬に指を触れてじっとみつめるとにっこりする子もいる。部屋の前の広い床に生後1ー3ヶ月くらいの子が思い思いの方を向いて寝ている。泣いている子は一人もいない。ボランティアに抱かれている子もいる。膝に抱かれて、語りかけられている子。私も3人の子を、順に抱いた。蒸し暑い季節なのに、柔らかくぬくもりが心地よかった。床におろして寝かしても、泣くでもなく、おとなしくしている。
 次の部屋では、自分で立てる子たちが、一つのベッドに、2ー3人はいっていて、みんな元気そう。スピーカーから流れる音楽のリズムに合わせて、体を左右に揺らす子、両膝を屈伸する子、ベッドの柵をがたがたさせる子、みんな なかなか音感の持ち主と思えた。
 心身に障害を持つ乳児たちは、床に座って、私たちを見てニコニコとしている。歩いてそばによってくる子もいる。ナマステと合掌をすると合掌して応えてくれる子もいる。ダージリン地方から来たという子たちは、色白で、モンゴロイド系の感じ、アーリヤ系の中にいると、よく目立つ、子どもの家でも、インドの民族の多様性を見せてくれた。

 死を待つ人々の家

 男性 40人、女性 43人が静かに休んでいる。その世話をシスターとボランティアの人がしていた。日本人の若い人(男性、女性)欧米人、台湾人などの若者にまじって、年配者もいた。定年後の生き方を、ここに見つけたのかもしれない。日本人の若い女性は、痩せ細った人の足を、ていねいに、ゆっくりとマッサージしながら、私たちの話しかけや、質問に、手を休めることなく答えてくれる。全身を任せ、全身で受けとめている。この関係は、安らぎのようなものなのかもしれない。ベッドメーキングする人、汚物をかたづける人、洗濯をする人、医師の介助をする人、寝ている人の手を握りながら、ニコニコと楽しそうに、語り合っている人、などここでのボランティアの力は大きいと思った。
 世話を受ける人は安らぐ場を与えられ、奉仕する人は、相手を全面受容するとが、互いに満ち足りたものを補い合うのかもしれない。
 11時にボランティアの休憩時間となった。2階の礼拝堂の前のスペースに、ミルクティーとコロッケのようなものが用意されてあった。ここで、世界各地から集まってきたボランティアたちは、思い思いに語り合い交流している。仕事を通して連帯感が自然に育っているようで、見ていて羨ましいほどだ。ただ見学して、それだけで帰るのは申し訳ない気がした。

神の愛の宣教者の会本部訪問

 AAAからの衣類と離乳食は先に届いている。ほかに、視察団が今回、マザーテレサ関係の施設とご縁をいただいたことへの感謝の気持ちに私の友人からの気持ちを加えて、金額にして、シスターにお渡しした。その後、マザーテレサのご遺体の安置されている部屋で、自分なりの思いを込めてお祈りをした。
 掲示物の中に、日本語で書いたのがあった。「裸の人には衣服を着せてあげるだけでなく人間としての尊厳を着せてあげましょう」と。
 マザーテレサの偉大な活動のもとは何だろうと考える。この部屋で思ったのだが それは 祈り ではないだろうか。マザーテレサは、ヒンドゥ教の人にも、イスラム教にも、「あなたの神に祈りなさい」と言われたと聞いた。多くの宗教は祈ることを大切にしている。マザーテレサの言葉に人々は、安心して祈り、感謝することができたであろうし、マザーテレサも祈りを通して、その人々の姿の中に神を見ていたのではないだろうか。去りがたい思いであった。

フィリピン報告                    AAA常任理事 中里睦子

’06、9、1〜’6、9、6まで、AAAフィリピン視察に参加させてもらった。
 私の中にあるフィリピンは、と、思い出してみると、大部分が、さきの戦争がらみである。当時まだ小学生だった頃、ルソン島、コレヒドール、マニラ占領、レイテ島沖会戦など日本軍の先勝ぶりを、学校教育の中で繰り返しおぼえさせられたことである。戦後になって、戦争の実態が明らかにされて行く中で、それまで全く知らされていなかった日本軍のこと、戦争のことをすこしづつではあるが知るようになった。その中で、フィリピンについては、「虐殺」「従軍慰安婦」「バターン死の行進」などであった。学校で教えられてきたことと、戦後に知った戦争の実態とのギャップによる衝撃は、言いようのない程のものであった。 今回のフィリピン行きを、家が留守になるので、お隣りの、私と同年輩のご主人に伝えたら「フィリピンに行かれるんですか、勇気がありますね」と言われた。私たち同年代の者の多くは、体験を通して、あの戦争についての、相手の国に対する心の痛みというか共通の思いを持って生きていることを実感させられるのだ。心に重い部分を持ちながらの旅になることを自覚して出発となった。

 第1日目 9月1日(金)

 成田空港での、テロ対策のためのチェックが厳しく、時間がかかった、マニラ空港まで4時間余(時差1時間)のフライトで、現地時間の午後10時30分頃着陸した。

 この国で 戦いし日本 虐殺も
 死の行進もあり 忘れる勿れ  

 アスクミー の青木さん。キボウパガサの高藤さん(共に現地のNGO)ので迎えを受け60余km先のブラカン州、バリワグにあるアスクミーファンデーションを目指して夜更けの高速道路を車で移動した。

 フィリピンは、ただいま雨季、蒸し暑さを感じる。私たち視察団4人の滞在中の宿舎はアスクミーのリーダーのDr(そう呼ばれている)宅である。時間も遅いので、夜食(サンドイッチ)をいただいて、就寝。

 第2日目 9月2日(土)

 救援物資贈呈は、コンテナが港に到着しているのに、手続きのこと(フィリピン政府の勝手な理由)で、受け取れず、解決するまで先送りとなった。そこで、本日の午前中の予定は、日本のODAの協力によって出来たアンガットダム見学となった。
 ダムに向かう途中の古い民家の窓の格子戸の枡目は、一辺が15?位だろうか、走行中の車の中からなので確認できないが、同行の高藤さんの説明によれば、その格子の一つ一つに帖ってあるものは、ガラスや紙でなく、なんと貝殻だとのこと。ホタテ貝のような平べったい貝殻を使うのだそうだ。貝殻を使うという発想がすごいと思った。大量の貝殻を格子に合わせて薄くしていく。まさに職人芸と言える。現代風の家には、貝を帖った格子戸はない。近代化に職人芸は不用となる現象は、フィリピンに限ったことではない。
 詳しいフィリピン地図を持っていないので意識して通過していく地名を記録しようとしていたのだが、格子戸に気を取られているうちに、もうアンガットダムに到着してしまった。ダム完成記念碑によれば、このダムのできる以前は、大洪水などの被害があった。日本の協力で、01年10月、工事にとりかかり、03年3月に完成した、治水と灌漑用に造られたダムであると。
 日本の政府開発援助中で、ダム建設は結果が必ずしも良かったとは言えない例を耳にすることがしばしばある。アンガットダムはどうなのだろうか。聞くところによれば、ご多分にもれずというところがあるようだ。まず雨季の雨が流す大量の土砂がダムの底にたまるために、ダムが浅くなり、治水目的が十分に果たせないため、常に浚漾船が土砂をすくいあげているとのこと。見れば四隻の浚漾船が作業をしていた。また、ダム工事に携わった労働者の多くは地方から集まって来たのだが、工事が終わった後は、次の仕事も、行き場もなく、ダム周辺に住みついて暮らしている。景観が変わり、生活排水等で水が汚染されている。ダム湖には、ウォーターリリィという水草があちこちに群生していた。この植物が、水の汚染を改善するのか、否かは知らないが治水のために役立っているとは思えない。
アフリカのビクトリア湖には、水の汚染によって、ホテイ草が大量に群生し、一部では船の航行を妨げているという事がある。この事と思い合わせると、水の汚染が深刻なのではないだろうか。
 ダムへの遊歩道の境界に、直径30?余で長さ70〜80?位の砲弾の殻(薬莢というのか)が並べてあった、多分、大東亜戦争(太平洋戦争)時のものではないだろうか。廃物利用以外の意図があっての使用ではないかと勘ぐってみたりする。
 ダムを後にして、種苗会社見学のあと、サンファエロの青木農場を見学した。広い農場で、既にアスクミーの人たちによって農業実習がされている。米作りは約3反(900坪)で、あとは畑にしたり、牛を飼ったりの計画があるそうだ。青木さんも高藤さんも農業に対する期待の大きい事は、話されている中で感じた。アスクミーの若者たちがやがてフィリピンの農業指導者になって各地で活躍することを思い描いてみた。実現は夢でないことだろう。
 農場の門を入ってすぐ右側にニーム(インドセンダン)の若木が数本植えてあった。実も葉も防虫効果がある木である。
「ケニアのガリッサのゲストハウスの庭のニームの大木は枝を伸ばして、枝先の葉が風車のように風に揺れていたのを思い出す」とAAA代表の純子さんが言われた。その時私も一緒で、見上げると青空をバックに爽やかにまわるように揺れていたっけ。ニームの若木が育つのもまた楽しみの一つとなった。
 農園の正面に見える山が、エミリオ・アギナルドによるフィリピン革命の地、マロロスケーブ山だと青木山に教えてもらった。山はうすくガスがかかったようだった。
 青木農場のあたりは、田園地帯である。田植えをしているのが、あちこちに見られる。機械でなく手植えである。最近は稲の品種改良が進み、生育期間が短く、多収を可能にしたとのことだが、

 米つくり その気なければ 三期作 普通で二期作 怠けて一期

ということのようだ。農村から街中に入ればトライシルク(サイドカー付きバイク)タクシー、ジプ二ー(米軍ジープを改造した乗合自動車)が入り乱れて道路の巾いっぱいに走っている。車はプラザパークという広場に到着。ここでは、アスクミーの人たちが炊き出しをする。何をどのようにするのか、わかっていない私達は興味津々である。
 プラザパークと道路を挟んで、せんとメリー教会が建っている。古色漂う建物である。地震で壊れた後、1880年頃に再建されたと案内にあった。教会に続いて修道院がひっそりと建っている。大東亜戦争中には、この修道院は日本陸軍の参謀本部が使っていたそうである。
 プラザパークでの炊き出しを知ってか、大勢の子供や人々が集まってきた。子供たちの多くは天真爛漫で、カメラを見れば、前に立ってポーズをする。そうした子供達をみながら、高藤さんは、この中にいるであろうストリートチルドレンをさがしておられた。
 炊き出し前に、アスクミーの子供達の踊りが始まった。衣装に着替え、音楽に合わせて踊るリズム感、躍動感、表現力、抜群である。植民地時代、大東亜戦争時代、フィリピンの人々は、沢山の迫害にあった。その中から独立を勝ちとった。この人々を讃え次の世代の自分たちも、プライドを持って生きようという物語性をもった踊りが、踊り手の輝く瞳と切れにいい動きで見事に表現されていて、涙が出るほどに感動する。フィナーレは、フィリピン国旗を高く掲げて毅然と立つ女性とそれを讃える民衆。見ている人々は一瞬息をとめ、そして拍手となった。

 踊る子ら かってスラムに また孤児で
 ストリートチルドレンと言われた子なり

 この国に 生まれたほこり大切と
 踊りのテーマは 民族独立

 炊き出しは、袋詰めにされたごはん、スープ飲料水を配るという方式だった。集まった子供達は、引換券を手に、押し合うこともなく並んで順番を待っていた。配るという作業は順調に流れて終わった。会場には、日本語で話しかけてくる女性がいた。日本で働いたことがある。今は子供が病気なので働けないが、治ったら美容師の仕事をしようと思っていると言った。じゃぱゆきさんだったのか。
 高藤さんの話には驚いた。それはじゃぱゆきさんの後を追ってフィリピンに来た日本人男性のことである。その人たちは、お金のあるうちは良いのだが、お金を使い果たしたあとは、仕事もなく、行く所もなく、故国を捨てて、ここに渡って来たので、日本に帰ることも出来ないでいる。日本にいる家族からは、好き勝手なことをしてフィリピンまで行ったのだからと見捨てられ、病気になっても金もないという男性が相当数いるとのこと。日本人NGOの人たちが最後の面倒をみている。高藤さんもそのうちのお一人のようだ。生きると言う基本的なことをなくした人々がここにいると。
 午後3時過ぎから、日本からもって来たパック詰めのお粥(日本の松屋食品寄贈)をスラム街の乳幼児を対象に、配りに行った。アスクミーの子供達が、家庭や道路にいる子供達に、声をかけ乍ら配り歩いた。日本人がいるということで、二人のボディガードがついて、ものものしい感じがしなくもない。スラム街は、バリワグの街中を流れる川沿いにある。家の半分は土の上に、半分は川の上にせり出したバラックが隙間もなく建ち並んでいる。狭い家に大勢住んでいるようだが、家の中はよく見えない。それにしても、どの家も洗濯物が沢山干してある。大家族なのだろうと想像する。このスラムに家族は住んでいて、子供一人がアスクミーで生活している例もある。部屋が狭い、口減らしなどの理由だろうか。
 スラム街を流れる川は、汚染されていることは想像にかたくない。濁った流れは、とても水の色とはいえない色をしている。ゴミも流れてくる。目では見えないが生活排水は相当流れ込んでいるはずである。この川で子供たちは楽しそうに泳いでいた。パックの粥を配り乍らいけば、どこでも子供が多い。そして明るくて、人なつこいのがよい。
 貧困の生み出す人口増加はフィリピンに限らずだが、家族計画が浸透しにくいなどの理由もあるだろうが、しかし、親の立場としては子供は働き手なのであろう。僅かでも、貴重なお金を稼いでくれるのが子供である。いつか「神の子」という映画をみた。フィリピンのゴミの山でお金になりそうなものを探して稼ぐ子供達を思い出した。お金になるものを見つけ出せれば、それで働き手なのである。草と砂糖黍の見分けが出来れば、農場で働くのだという。見た目には子供でもれっきとした労働者でもある。そして思うことは、アジア、アフリカの私がかかわった国々では、どこでも物乞いの子供たちがいたが、フィリピンでは、そうした子供たちに出会うことは無かった。たまたま出合わなかったのかもしれないが。スラム街の子供たちもアスクミーの子供達も明るい笑顔をしている。何故だろう?信頼とか絆とかそれによる安心感といった確かなものがあるということだろうか。
 夜は、アスクミーのみなさんが、私達の歓迎会を開いてくれた。昼間、プラザパークで見た踊りとあまり変わらない踊りであったが、切れのいい動きと、真剣な表情に魅せられてしまった。
 一食の食費10ペソ(日本円で20円)、献立は、ごはんとスープのようなおかずだけである。私がスープと言ったら、青木さんは「いや、スープでなくおかずです」と訂正された。お腹がすかないのか気になるが、青木さんは「これが精一杯です」といわれた。子供たちが、のびのびと明るく育っていることが、満足度の証であるのだろう。
 青木さんは、子供たちが、フィリピン人の誇りを持って人の恩を感じられるように育って欲しいと願っていると言われた。
 アスクミーは開設から25年目。巣立っていって、職業上の成功をした人たちもいる。その人たちも、そうでない人たちもアスクミーを懐かしんで訪ねて来てくれるなんて素晴らしいことだけど、今のところ、そういうことは少ないそうだ。
 恩を感じないことを恥とする文化は、日本、韓国、カトリックの国フィリピンにも共通ではないだろうか、それが今は失われつつあるの感が青木さんの思いの中にあるのだろう。
 『フィリピン独特のバランスガイ(共同体)では、恩は小さくても、返せば消せるというものではない、それは人間らしさと良識の表現であり、金の多寡では計れないとされている』(知っておきたいフィリピンと太平洋の国々より)

 第3日目 9月3日(日)

 フィリピン革命の地を見学ということで出発、途中のサンラフェエル市場で写真を撮らせてもらった。店番というか売り子には、男性の姿はなく、ほとんど女性である。新鮮な食材が並ぶ、水をはった大きなトレイの中で「新鮮だよ」と自己宣伝するかに跳びはねるテラピア。色とりどりのピカピカの野菜、果物と品揃えが豊富だ。豆腐も売っている。豆腐は蜜をかけて食べるのだそうだ。
 写真を撮らせてくださいとお願いする前に売り子さんたちは、「写真を撮って」と笑顔でポーズをする。あとで写真を送ってくれと言う人もいない。ちょっとした驚きである。
 市場を後にして、サンイルデホンソという町というか村というかに入る。家の少ないところに建つスペイン風の古い建物がある。人々に幽霊屋敷といわれる家である。大東亜戦争中に、この家に日本軍がいて、虐殺、レイプなどがあったと伝えられている。日本軍に殺された人々が、夜な夜な幽霊となって出るのだそうだ。60余年の歳月が経ったのに、ずっと、つらい思いを持ち続けている幽霊たちに思いを寄せ心の中で祈った。建物の中は樫の木を使った頑丈な造りであるが、天井や窓など壊れている所もある。二階に上がると心なしか霊気が漂っているような重苦しさを感じる。ここを出て、サンミゲルの街に入った。ここは少し歩くと熱帯雨林と言ってもよいような所である。ビクアナバト国立公園である。入口の掲示板には洞窟めぐりのコースが示してあるが、独立記念碑のことは何もない。入場料20ペソ(約40円)を払って案内人の先導で林の中に入る。山あり、谷ありだ。入ってほど遠からぬ小高く狭いところに、木々に囲まれてひっそりと小型のフィリピン革命記念碑があった。共和国独立宣言をし、初代大統領となったエミリオ・アギナルドの記念碑である。
 フィリピン革命の戦士といえば、まず、ホセ・リサールであると思っていた。マニラのリサール公園に記念碑が建ち、ここがフィリピン、ルソン島のゼロポイントで、ルソン島各地への距離基点になっていると案内書に写真入りで載せてある。それに引きかえ、この目の前のささやかなアギナルドの記念碑は何を意味するのか。
 ホセ・リサールは祖国を独立に導いた英雄として今も国民に尊敬されているが、1896年に、独立を見ることなく処刑された。リサールと志を一つにしていた。フィリピン革命の最大の英雄ボニファシオは、共に革命を目ざしたアギナルドによって、1897年に処刑された。1899年、革命の主導権を握ったアギナルドは、ブラカン州、マロロスで独立宣言をし共和党初代の大統領となって、独立の中心人物としての地位を得た。これらのいきさつから、アギノルドの記念碑が森の中にひっそりと建っているのかと思うのは、うがち過ぎというものか。
 日本とフィリピンの関係は、室町末期16世紀頃、ルソン島との貿易ではじまった。貿易の利に目をつけた豊臣秀吉は、フィリピン獲得をもくろみ、1592〜1594年、フィリピンのスペイン総督に降伏要求を行った。実現はしなかった。その後、キリシタン取り締まりで日本から追放されたキリシタン大名、高山右近らは、ルソン島に渡った。江戸時代になって徳川家康は、スペイン政庁と友好関係を結んだが、鎖国によって途絶えた。
 1898年、フィリピン革命の代表二人が日本に来て、武器、弾薬の支援を求めた。交渉は難航したが、陸軍参謀本部が武器、弾薬を払い下げた。フィリピン側は、日本の三井物産所有の老朽船、布引丸を購入して長崎を出航したが、途中で暴風雨にあい船は沈没した。フリピン革命のために役立つはずの武器は届かなかった。これが布引丸事件である。当時、既に、日本領事館が開設され、日本人は出稼ぎとして、マニラ近郊で働いていた。

 第一次世界大戦後、日本は、ダバオ(ミンダナオ島)に大規模なマニラ麻園をつくった。栽培は、日本人移民によってなされた。こうした進出に対し、宗主国アメリカはもとよりフィリピン国民からの批判も高まり、その一端が、日本人はダバオで違法な土地利用を行っているとする、ダバオ土地問題となって噴き出し、こうした経済的緊張関係の下で、1941年12月、日本軍のフィリピン侵略が行われた。(以上東南アジアを知る辞典を参照)

 アギナルド記念館は故郷カビテ州カウイットにあると案内書にあった。それにしてもボニファンオの顕彰はないのだろうか。
 車はここを後にして、更に田舎道を行き、小高い所に着いた。ここは、シーブルスプリング(冷泉)で硫黄の臭いがしている。大東亜戦争中、日本軍の上官らの保養地だった。コンクリートの高い柱に囲まれただけの開放的なだけの床の中央には、アイボリーと薄茶の二種のタイルで、日本軍の象徴でもある軍旗がモザイクで埋めてある。中央部分の破損を除けば、ほぼ完璧な形で残っている。
 軍旗は、中央の赤い円型(日の丸)から16条の光が放たれ、それも赤で表してある。日の丸の旗と軍旗は、交叉し、ペアの形で写真や印刷物などにあって、子供の頃に身近でよく目にしていたものである。
 この建物に続いて、平屋建ての個室が並んでいて、各室は、大きな浴槽というか小さなプールといったものがある。冷泉が湛えられある。戦争中という非常時に、ここで上官というか将軍らは、慰安婦を侍らせて保養していたとのこと。だが、ゲリラの襲撃をうけ、捕えられ、首を切られて、捨てられたのだと、現地の人は説明した。ここには、日本からの遺骨収集には来ないのだとも。
 硫黄冷泉の各個室には、子供のグループや家族連れが楽しんでいた。
 アスクミーに戻ってきたら、子供達が前の道路や庭のあちこちで遊んでいた。縄とび、ゴムとび、ブランコなど、私達の子供時代そっくりの形である。聞くところによると腕相撲や石けり、じゃんけんなどもあるとか歴史をたどれば、16世紀頃から、日本人町があったということ、そしてアジアとしての共通性を思うのである。他の子供たちは数人、シンバさんの奏でるハーモニカのメロディーに合わせて「ティンクルティンクルリトルスタ−」と歌っている。子供達にとってハーモニカは、初めての楽器のようだ。

 シンバさんのハーモニカ 子ら珍しく
 手にとり眺め、吹いたり、吸ったり

 第4日目 9月4日(月)

 フィリピンは、9月には学校が休みになる。祝祭日はないのに、今朝、登校した子らは「今日はお休みだ」と戻って来た。州か町かわからないが、祝日を急に決めたら、土、日と休みが続いたので、子供達への連絡が出来なかったのだ。と学校側の言い分である。
「これがフィリピンですよ」と青木さんは、日本人として、日本人の私達に気遣って言われたのだろう。
 今日の予定は、コンテナ交渉なども含めてのマニラ行きである。9時25分出発、途中のニノイアキノ邸の門塀の前に並んだ木々に黄色のリボンが結んであった。夫は獄中だが、妻が帰りを待っているなら、門前の木に黄色のリボンを結んでおいてと言った。夫人は気持ちを表して結んだ。日本映画に「幸せの黄色いハンカチ」がある。リボンもハンカチもアメリカが元だそうだ。切なる思いが通じ合うホッとする話だ。
 途中、癌を病む青年へのおさづけで、そこに立ち寄った。外光を遮断した薄暗い部屋の中でテレビやゲーム機と一緒の療養生活をされている。これでは、心も病んでしまいそうと気になった。会長は、おさづけの後で丁寧に青年に語りかけられた。青年も、じっと目をみて頷いていた。

 癌を病む 青年に語る癌と共に
 生きるという 生き方もあると

 おさづけは 生きる力を呼び戻す
 力をさづける 目に光り見えて

 午後からは、 天理教マニラ出張所におじゃました。地道にマニラで布教活動をされておられる所長さんのお話をうかがった。
 このあと、ボディーガード付きで、バクララン市場へ行った。ここでも、愛想のよい店員さんの笑顔があちこちにある。地球家族用のTシャツ買いに行ったのだが、買い物は人任せで、行き交う人々や並んでいる商品を眺めていた。店番をしていた若い妊婦さんが、シンバさんに、お腹の赤ちゃんの名付け親を頼むという珍事があったリで楽しめた。
 ハロハロ(色々ごちゃ混ぜ)は、市場の商品だけではない、人も車も物売りの人も品物を並べている露天商も道路を思うままに使う。待ち合わせ場所に立っていると、まさにこれがハロハロそのものだ。

 第5日目 9月5日(火) 

 今日は、サンラフォアエロとサンイルデフォンソの各市長(町長)とを表敬訪問する。
 サンファエロ市長は76歳に見えない若さで饒舌に語る。アスクミーの農場の話では、「オイスカ(日本のNGO)は地元のサポートがなく失敗したが、今回はこのことを参考に、協力していく。土地、農機具、除草機などは無償で貸し出す」ということだった。
 高藤さんからのタバコ生産の跡地利用についての質問に対して、市長は、ジェトロファという植物は実からガソリンに代わるオイルを作る、これは肥料がいらないし、手がかからない、インドでは既に実行している。但し、収穫までに2年かかることと、1haにつき800ドルの費用がかかるのが難点である。計画としては、これからとりかかる、日本人は、ジェトロファの知識を持っているので、そういう人々の協力を頼みたいと言った。
 市長自身のこととして、テラピア、中国鳩の飼育をしている。鳩の糞はテラピアに餌にすることが出来る。しかし、電気代が高いので、ソーラーの利用という事もあるが、投下資本が高いという事があるなど、何となく、日本通を感じさせ、協力を期待してイルやに感じた。ジョークを言いながらの話の進め方に敬服する一方、社交辞令という気もする。表面上は表敬であるが、互いに陳情を承知して話し合っているように思える。
 サンクルデフォンソ市長、ここでは農場提供の話はあったが、話はあまりはずまなかった。
 このあと、Drの農場開きという事で、その農場へ行った。会長、シンバさん夫妻での「よろづよ八首」が農場の端々までも通る声で唱えられた。これにDrも参加しておられた。
 ここの農地には「カラマンシ」が実をつけていた。カラマンシは、徳島のスダチに、形も大きさも味も良く似ている。同行したビショップさんが摘んでいた。

 バリグワに帰って来たら、アスクミーの図書館で、男子年長組がシルクスクリーンで昨日バクララン市場で買ってきたブルーのTシャツに「地球家族・AAA」のプリントをしていた。大量にもかかわらず、ほぼ完成していたのには驚きだった。
 庭では、年長組の女子たちが、バリワグ市の社会福祉関係の人たちから、マッサージや美容の指導を受けていた。アスクミーでは、マッサージは、全員が学習し、美容は希望者が学習するということだった。またTESDAというライセンスの試験に合格すると、日系企業への就職の道が開ける。そのため、技術的なことだけでなくマナーや感謝の心なども持てるように指導している。これまで、アスクミーから自立していった人は、30数人とのことだった。
 義務教育は、小学校7年、高等学校4年で18歳になれば、自立しなければならないきまりがある。アスクミーにいる間に、自立へ向けての学習も重ねていくのである。現在、ジャピーノは8人、0歳〜17歳まで75名がアスクミーで生活している。アスクミーのことなど、説明は、その時々なので、全体を知ることは十分でない。できれば、朝から寝るまでのことを見せてもらいたかったが、かなわず残念だった。
 明日は日本へ帰るので、青木さんの計らいと案内で、トライスクルに分乗してショッピングモールに行った。店内はかなりのボリュームでクリスマスソングが放送されていた。何故今頃などと問うこともない、当地ではこれが当たり前なのだと理解する。
 眺めながら店内一巡し、コーヒー、UBEという紫芋を原料にした菓子を買った。帰路もトライシクールに乗った。サイドカー部分は前方が塞がって見えない。道路は混んでいて不安もあったが無事に帰れて一安心。
 午後4時頃から、再びスラム街のお粥パックを配りにアスクミーのメンバーたちと出かけた。前回と逆の川べりのスラム街が今日の行動場所である。乳幼児にだけ配るということは、むずかしい。大人が手を出せば、断れずにわたしたり、中には、配り方を取り仕切る中年女性が現れたりで、子供は言いなりになる。
 配るということも含めて、配り方を考えたらどうかと日本人的発想が浮かぶ。でも大らかなこの国の人々は、この配り方が適切なのかもしれない。

 夜は私たちのためのお別れ会が始まったら急に雨が降り出したので、室内に入った。アスクミー以外の街の人も来ていて、広間は満員だった。踊りのあと、おさづけがあり、街の人を含めて50人近い人に3人でおさづけがされた。雨も止んだので、みんなで野外で会食となった。テーブルの上に敷いたバナナの葉の上に、直接ごはんが一人分づつ置かれ、それにチキンスープをかけて、手で食べる。子供たちの食べ方は、それが当たり前なのか、なれない食べ方なのか、ごはん粒が、バナナの葉の上に散らかったまま残されてあった。なんともったいないことをと言いたくなる。私たち日本人は、バナナの葉に一粒も残さず食べた。それをDr夫人のルビーさんが見て驚いたようなので、山崎さんは「ごはんは1粒でも無駄にすると目がつぶれる(見えなくなる)。感謝して残さないように食べなさいと親に教えられて育った」と言った。するとDr夫人ルビーさんは、すぐに立ち上がって、ほぼ食べ終えている子供たちに「日本人の食べたあとをみてご覧」とそれだけ言った。子供たちは、すぐにバナナの葉に散らばって残されていたごはん粒を手で寄せながらきれいに残さず食べた。
 米を作る人、ごはんを炊いたり、食べられるようにしてくれる人、そして何より米そのものの命を戴いて、自分の生きる力でもある命となってくれることへの感謝ということを、子供たちは、今日を一つの切っ掛けとして学んでいくことだろう。青木さんの言う「感謝の気持」が、Dr夫人ルビーさんの一言でアスクミーの子供たちが理解して実行したことを見ていて、感謝ということは着実に身に付いていくのではないかと思った。
 お腹いっぱいになったお別れ会も終わった。たくさん学ばせてもらった。ありがとう、元気をもらいました。みんなも元気でね、おやすみ。明朝は夜明け前に帰国の途につく、Drはじめアスクミーの皆さん、高藤さん、お世話になりました。

 第6日目 9月6日(水)

 4時起床、こんなに早いのにもう朝食が用意されてあった、感謝していただく。4時40分出発、車はDrと青木さんが同乗して空港まで送ってくださった。車の運転は初日から帰りまで、アスクミーの修了生ドドさんである。安全運転で定評があり、安心して移動することができた。ありがとう。

 マニラ空港もテロ対策で、搭乗までの時間がかかって、ぎりぎりの搭乗だった。帰路の話題は何と言ってもDrからたくさんの土産をいただいた中のびっくりした一品「箒」である。Drは海外にでたことがないから飛行機と箒という組み合わせの異様さを気にしないのかもしれない。いや、わかっていても、ユーモアの心をもって「魔女は箒にまたがってどこへでも、安全に飛んでいけるんですよ、あなた方も魔女の持つ不思議な力にあやかって無事に帰国して、そしてまた来てね」と私たちの想像力に期待して、素知らぬふりをしていたのかもしれない、多分そうだろう。
 青木さんは、私たち4人それぞれが箒を持って飛行機に乗ること、持ち帰ったら家族がびっくりするだろうことを想像してか、箒をみては笑い思い出しては笑いで笑い続けた、あれだけ笑えばさぞ健康によいだろうという程だった。

 空港での荷物機内預けの手続きをする時日本語のできる女性職員は箒を手にとり、そしてまたがって「こうやって、飛行機にでなく、箒で日本にお帰りになったら」と言って笑った。箒と魔女は切り離せないもののようだ。私たちも、これまでどこの空港でも目にしたことのない箒を空港に持ち込むことで、結構楽しませてもらってことになる。Drの抜群のユーモアに感謝、楽しいお土産ありがとう。そうこうしているうち、昼過ぎに無事、雨の成田空港へ到着した。

「今回のフィリピン行きを振りかえって」

 主目的の救援物資を届けることはできなかった。国の事情ということでやむを得なかったが残念だった。
 日程、行動の記録をたどると、アスクミーを基点とした見学旅行ともいえる。
 その国の歴史の上に、現在のその国があることを知らなければならないことは当然だが、ともすれば忘れがちである。
 フィリピンと日本との関係から見ることができたことを感謝している。16世紀から、民間で貿易があり、日本人が住んでいたこと。それを、もうかる国だからと乗っ取ろうとしたが、スペイン側は、住んでいる日本人を人質にしたことで、秀吉の計画が実現しなかったこと。フィリピン革命では、アギナルドが特使を日本に送って、武器と弾薬の協力をたのんだこと。第一次世界大戦後は、列強の仲間入りしたつもりで日本は移民を送り込みマニラ麻などの貿易で経済摩擦をおこし、アメリカにもフィリピンにも嫌われてそのまま太平洋戦争に突入してしまった。そして私たちは、何ができるのかである。
 Dr夫妻、青木さん、高藤さんの立派な活躍を十分理解できたかは、心もとないのですがフィリピンという国を改めて意識の中へ入れて考える楽しみができたことを大切にしていきたいと思った。